松江地方裁判所 昭和26年(ワ)116号 判決 1952年5月16日
原告 日本鉄線株式会社島根工場労働組合
被告 永見信治
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実
原告訴訟代理人は、「被告は原告に対し昭和二十六年九月十五日原被告間で締結した日本鉄線株式会社島根工場労働協約書に署名せよ、訴訟費用は被告の負担とする」との判決を求め、その請求の原因として次のように述べた。
原告は、日本鉄線株式会島根工場の従業員で組織する労働組合であり、被告は、右工場の工場長であつて、同工場の従業員の雇入、解雇その他の労働条件等の決定について会社を代表する権限を有する者であるが、昭和二十六年九月十五日原告と被告との間で右工場従業員の労働条件等に関して団体交渉が妥結したので、同日労働協約書(甲第一号証)を作成し、当事者双方の代表者においてこれに記名調印をした。これについては、当事者双方とも労働省労政局長の昭和二十四年九月労政第六四三一号による各都道府県知事宛の通達もあり、労働組合法第十四条にいう署名は自署に限らず記名捺印をも含むと解し、本件協約書に対しても記名捺印だけで十分であるという考えからその自署の手続を省略したのである。たとえ、右協約書に当事者双方の自署がないからというのでそれが労働協約としては法律上無効と解されるにしても、少くとも労働協約を締結すべき合意は有効に成立しており、これに当事者双方の自署さえ加われば、右の合意が成立した前記日時に遡つて有効な労働協約となり得るものであるから、被告は、右の合意に基き右協約書を労働協約として有効なものとすべく原告に協力するためこれに自署すべき義務があるといわねばならない。
しかるに、被告は、その義務の履行を拒否し、且つ、右協約第八条の規定を無視して原告と一回の協議もしないで昭和二十六年十一月九日原告組合員九十三名に対し解雇の通告をなすに至つた。そこで、原告は、前示労働協約の効力を確保する必要があるので、被告に対し前示協約書に署名することを求めるため本訴に及んだのである。
なお、被告の抗弁事実のうち、被告主張の日時島根工場が閉鎖されたこと、原告組合の組合員全員が解雇予告手当、離職票、失業保険金等を受領したことは認めるが、解雇が被告主張のような事由によるものであること、被告がその主張の日時日本鉄線株式会社大阪工場の工場長に転勤したことは不知、その余の点は否認する。
原告組合の組合員全員は右解雇に対する異議を留保したまま解雇予告手当等を受領したものである。また、本訴の被告は、日本鉄線株式会社島根工場長たる被告であつて、永見信治個人ではない。
被告訴訟代理人等は、主文第一、第二項と同じ趣旨の判決を求め、答弁並びに抗弁として次のように述べた。
原告の主張事実のうち、被告が現在原告主張のような会社代表権限を有すること、労働協約が有効に成立したこと、原告主張の解雇が労働協約に違反すること、被告が原告主張の協約書に署名する義務のあることは否認する、その余の点はすべて認める。
(イ) 本訴の訴状によれば、被告の肩書きに日本鉄線株式会社島根工場長たることが記載されていないが、被告は個人としては本訴請求に応ずべき義務はない。
(ロ) 更に、被告は、昭和二十六年十一月一日日本鉄線株式会社大阪工場の工場長に転勤したので、現在ではもはや島根工場長として原告主張のような権限を有するものではなく、従つて、また、本件協約書に署名すべき義務もない。
(ハ) 日本鉄線株式会社島根工場では、経営困難のためやむを得ず昭和二十六年十一月九日工場を閉鎖し、原告組合の組合員全員に対し同月十三日限り解雇の通告をし、右組合員等は、いずれも解雇予告手当、離職票、失業保険金を受領してこれを承認したのであるから、右解雇は有効である。原告組合員全員が右工場の従業員たる身分を喪失した以上、原告組合は、組合員が一名も居なくなつた結果当然解散したものであり、いわば虚無の組合となつたのであるから、正当な原告としての適格を欠くものであり、また原告代表者も本訴において原告を代表する資格がない。
(ニ) なお、労働協約が有効に成立するためには、当事者双方の署名が絶対に必要であつて、記名捺印を以ては足らない、原告主張の昭和二十六年九月十五日附労働協約書は労働協約の内容についての基本的合意としての意味を有するに止まり、労働協約としての効力を有しないのであるから、本件解雇が労働協約に違反するということはあり得ない。
また、右協約書に有効な署名がなされても、当事者間に特別の合意の成立しない以上、労働協約は署名の時から将来に向つて効力を生ずるに止まる、従つて原告組合員は全部すでに従業員たる身分を失つている以上、前示労働協約書にあらためて署名を求めるということは全く無意味のことであつて、原告の本訴請求は権利保護の利益を有しないものである。
故に、原告の本訴請求は、以上いずれの理由によるも、失当である。(立証省略)
理由
原告が日本鉄線株式会社島根工場の従業員で組織する労働組合であり、被告が右工場の工場長であつて、同工場の従業員の雇入、解雇その他の労働条件等の決定について右会社を代表する権限を有していたこと、昭和二十六年九月十五日原告と被告との間で右工場従業員の労働条件等に関して団体交渉が妥結したので、同日本件労働協約書(甲第一号証)を作成し、原告代表者及び被告においてこれに記名調印をしたこと、昭和二十六年十一月九日右工場が閉鎖せられ、原告組合員九十三名に対し解雇の通告のなされたことは当事者間に争がない。
ところで、労働組合法第十四条によれば「労働組合と使用者又はその団体との間の労働条件その他に関する労働協約は、書面に作成し、両当事者が署名することによつてその効力を生ずる」とあり、右は、労働協約の基本となるべき合意が成立してこれを書面に作成しても、これに当事者の署名を欠く限り労働協約としての効力を生ぜず、これに当事者の署名が加えられた時にはじめて労働協約としての要件を完備し、その効力を生ずるに至る。すなわち、労働協約は、右の基本となるべき合意が成立した時ではなく、労働協約書に対する署名のなされた時に有効に成立するものであるという趣旨に解されるのであるから、その署名は労働協約を締結する権限を有する者によつてなされねばならないことはいうまでもない。従つて、たとえ、本件労働協約書に対する署名の請求が許されるものと解しても、その請求に応ずべき義務者は使用者たる日本鉄線株式会社であり、その義務の履行として本件協約書に署名すべき者は右会社の代表者或は特に右会社を代表して署名する権限を附与せられた者でなければならない。しかるに、証人宇津原砂、山野武夫の各証言並びに弁論の全趣旨によれば、被告は本件訴状の送達を受ける以前昭和二十六年十二月一日すでに日本鉄線株式会社大阪工場の工場長に転勤し、現在同会社島根工場の従業員の労働条件等を決定するについて同会社を代表する権限を有しないことを認め得る。もつとも証人山田徳四郎、宇津原砂の各証言によれば、前示解雇をめぐる紛争について、島根県地方労働委員会が斡旋を試みた際、被告はすでに島根工場長たる地位を去つていたのにかかわらず前示会社のために交渉に当つていたこと並びに被告は現在同会社の常務取締役であることを認め得るが、この事実から直ちに、被告が同会社を代表して本件労働協約書に署名する権限を附与せられたものと推認することはできず、他に被告が右の如き権限を有することを認めるに足る何等の証拠も存在しない。然らば、原告の本訴請求は、その余の点について判断するまでもなく失当であることは明白であるからこれを棄却し、訴訟費用の負担について民事訴訟法第八十九条を適用して主文の通り判決する。
(裁判官 松本冬樹 阿座上遜 浜田治)